学会の話題を会員がエッセイ形式でつなぐ
高瀬 弘一郎  キリスト教史学会大会に出席して思うこと
出村 彰  宗教改革500年に想う
太田 淑子  三笠宮様の思い出
大濱 徹也  日本のキリスト教は歴史として読み解かれたか
荒井 献  「シンポジウム」の原意に寄せて
  リレーエッセイ
  キリスト教史学会大会に出席して思うこと : 高瀬 弘一郎
No.5 2018-11-06
  学会内でも徐々に記憶が薄れていくのは致し方ないかも知れないが、本学会は1949年に未だ30代の海老沢有道先生が中心となって創立されたものである。キリシタン史家の海老沢先生等が創始されたことを思うと、学会の現状は本当に隔世の感一入である。往時は、キリシタン史研究が現在よりはるかに賑やかであった。永く大会に出席してきた私の印象もそうであるが、初期の頃の「会報」や大会のプログラムを確かめれば、その印象が間違っていないことが確認できる。当学会の会員構成、研究動向は変貌してしまった。
  毎年、海老沢先生との御縁も深く、本学会でのキリシタン史研究の学統を継承してこられた数少ない学者である岸野久氏初め、様々なテーマの研究を聴かせていただいて知見を深めているが、もう一つ、岸野氏の驥尾に付して学会でのキリシタン史研究を守るために、誠にささやかながら一助になればとの思いもある。ところで、上に記した本学会での研究の趨勢であるが、もちろん本学会でのキリシタン史研究が心細くなったことと、わが国の歴史学界全体としてどうかという問題とは別であるが、本学会が歴史学界全体の動静と全く乖離しているとも言い切れないのではないか。
  なぜこのようなことになったのであろうか。研究環境ということなら、今日では、かつて海老沢先生が理事長をしておられた頃とは比較にならないほど、興味深い第一級の根本史料が大量に、閲読可能な状態であるにもかかわらず、余り利用されることもなく放置されているのが実情である。史料採訪のため親兄弟と水盃を交わして渡欧したなどというのは、遠い昔の夢のような話で、写真・映像でよければ居ながらにしてその閲読が可能である。解読するのは容易とは言えないが、難しいからこそ達成感も大きい。目の前にある興味深い史料を読もうとしないとは、アクセスが困難でないと有難味が減じるのか、と嫌味を言いたくなる。
  キリシタン布教は大航海時代の所産だということを疎かにしては、満足にキリシタン史を語ることはできないと言ってよいであろう。大航海時代の理解の重要なことを認識したとしても、これも実行するのはなかなか容易ではない。その広い視圏の持ち主が著述した通史的な書物を読むことが、そのための有力な手掛かりとなるであろう。私は今C.R.Boxer,The Christian Century in Japan,1549-1650.の翻訳をしている。ボクサー氏(1904~2000年)はロンドン大学教授で、広く大航海時代に関する第一級の歴史学者であった。とくにポルトガル関係に造詣深く、日本に関しては上記の書籍が代表的な業績である。多くの著書があるにもかかわらず、未だ一冊も邦訳されていないのは、日本史学界として恥ずべきことではないか。果たして私程度の英語の知識で、この大著の訳業の任に堪えうるであろうか、との思いは当然あるが、かつて若いころ本書を学び、著者来日時に講演を聴いた者として、本書の重要性は強く認識している。本来ならもっと早く邦訳すべき大著である。この間岸野氏からのお勧め、励ましもあった。若い頃の拙い訳稿を取り出して、再読し訳文を改めているところである。研究者としての最後の仕事と心得ている。
  宗教改革500年に想う : 出村 彰
No.4 2017-11-01
  言うまでもなく、今年は「宗教改革500年記念」、国内外で各種の刊行物、研究集会、学会、礼拝などなどが続いたようです。わたしたちの学会学術大会でも、裨益するところ多大だったシンポジウムとパネルに、感動と感謝をいだいて帰宅したことでした。
  私ごとになりますが、つい先日、明治学院大学と港区とが共催する市民講座にお招きをいただきました。学会理事長大西晴樹先生が司会の労をお取りくださり、感謝でした。厚かましくも、「一緒に読もうルター95条」という副題を付けてしまいましたが、自分で考えても、1条から95条まで、果たして何度読み返したことがあるのか疑問になったからです。改めて数度読み直してみたのですが、実はその内容・論点の配列順序等々、今さらながら、疑念を深めざるをえませんでした。どうひいき目に見ても、理路整然・論旨清明とは言いかねるからです。その席上、つい口が滑って、「もしこれが答案だったら、とても合格点は上げられそうもない」などとまで……。まったくの空想ですが、もしもカルヴァンだったならば、巻・篇・章・節・項とでも分けて展開したのかもしれません。それならば、もっと分かりやすかったことでしょう。
  実は、「提題」公示というのは、当時の大学では、ごく一般的な慣行だったことは周知のとおりです。現在でさえも、外国での経験では、学位取得のための最終口頭試問の開催が、学内のいたる所に公示されていたことを、ある種の当惑感と共にいまだに忘れられません。
  この種の「欠陥」にもかかわらず、僅か数週内にはドイツ語版が広く流布され、数ヶ月内にはヨーロッパ各地で、内容への賛否は別として、広く読まれたという事実はどこに起因するのでしょうか。私見にすぎませんが、あの日、あの文書を手にした者たち、さらには耳にした者ならば、必ずそこから「何か」を感得できたからに違いありません。「感得」と言ったのは、「気づき」と言い直せるかもしれません。「気づき」とは、自分自身がこれまで依拠し、おそらくは疑問にさえ思わなかった「価値観」、ないしは「生き方」に、突如として風穴を開けられる体験、などと言い直しては極端でしょうか――急いで、風穴を塞ごうとしようが、ヨハネ福音書の表現ならば、「風の思いのままに吹かせようが」。
  恩師と仰ぐ熊野義孝先生が、敗戦直後の1947年に出された『マルティン・ルター ―その生涯と信仰―』の一節を忘れられないのです。先生は、宗教改革を「宗教から宗教への戦い」と呼びました。あるいは、「宗教そのものの根源的矛盾の爆発」、つまり「救済への願望、浄福祈願の敬虔」そのものさえも、神の前で義しいのかという問い掛けだった、とまで言い切られました。駄弁を加えれば、あの出来事は宗教〔キリスト教〕の手直し・改良・改善ではなくて、「宗教」そのもの見直し、あるいは再発見だったということではないでしょうか。
  今年も残り僅かとなりました。しかし、この永遠の「問いかけ」を胸に懐きつづけて、新しい年を迎えたいものです。
(本学会第4代理事長)
  三笠宮様の思い出 : 太田 淑子
No.3 2017-03-20
  三笠宮崇仁親王が2016年10月27日にお亡くなりになりました。三笠宮様がオリエント学者でいらっしゃることは、よく知られていると思いますが、キリスト教史学会の会員でもいらしたことは、世間ではあまり知られていないと思います。
編集注: 三笠宮崇仁親王殿下は、1952年にご入会、第3回大会からご出席の記録がある。
(「キリスト教史学会報」 №9,10)
  宮様の思い出で印象的だったのは、大学在学中、1953年横浜YMCAで行った大会の時のことです。宮様に会費の支払いをお願いしてもよいかをみんなで迷っていた時に、身の程知らず、宮様のところに会費の取り立てに参りました。宮様は、お財布を出しお払いくださいました。それをごく当たり前と思っていたご様子で、お財布を持っていらしたのだと思います。宮様からしっかりと会費をいただいたことについて、あとでみんなの失笑をかったようです。
  1956年の第7回大会が、関西で開かれた時にもお見えになり、その時、おそらく海老沢有道先生のご用事だったのか、宝塚市にある小林聖心女子学院を訪問することになり、宮様もご一緒され、私も聖心の卒業生ということで、同道させていただきました。宮様と海老沢先生は学内にお入りになり、私は外で待っておりました。宮様はお帰りに、学校から花束をお受けになったのですが、ご自分に相応しくないから、とおっしゃって、私にお渡しになったのですが、花束をその後どうしたかは全く覚えておりません。そのお帰りになる時も、お付きの方もなく、お一人でお戻りだったと思います。
  その後、私も子育てで忙しく、大会出席もままならぬ状況で、お目にかかる機会も少なくなりました。
上の写真は、1952年8月の第3回大会で展覧会ご観覧中の三笠宮殿下
右から2人目が三笠宮様、3人目が海老沢先生
(『基督教史学』第3輯、1953年より)
編集注: 三笠宮様は、1959年第10回大会(東北大学)において「最近のパレスティナの考古学的調査について ――パツオル遺跡を主題として――」 との題で特別講演、1960年の第11回大会(聖心女子大学)には、当時国際宗教学会総裁として渡独を数日後に控えていらしたため、懇親会のみに臨まれたこと、1962年の第13回大会(明治学院)では、東京代表として海老沢有道先生と共にスピーチをされたという記録がある。
(「キリスト教史学会報」№39,43,49)
  1971年に横浜カトリックセンターで開催された第22回大会には、百合子妃殿下とご一緒においでになり、お泊まりになりました。センターには宿泊施設があって、海老沢先生ご夫妻や他の会員も何人か泊まりました。この頃もまだ警備などほとんどない時代で、かなり自由にしていらっしゃいました。そして、宮様がキリスト教史学会にご参加なさった最後は1981年の第32回大会で、同じく横浜カトリックセンターでの開催でした。この時はお一人でおいでになりました。この頃までは、宮様もご自由になされていたという記憶が残っています。
(本学会名誉会員)
  日本のキリスト教は歴史として読み解かれたか : 大濱 徹也
No.2 2016-05-08
  日本のキリスト教、とくにプロテスタント史は、過剰な神学的課題意識、ある種の政治神学によりそい、現代の自己的利害から歴史に注文をつける作法で、自己の信仰・思想体系―イデオロギーに合わせて歴史的倉庫から何かを勝手に取り出す「歴史との取引」で、「福音信仰」の証として歴史を描いてきました。
  このような作法は、己が信仰の証を歴史として想い描きたいがため、現在の場から過去を断罪する歴史の後知恵にほかならず、当世流行の神学的ドクマによせて歴史を語る営みです。ここに提示された歴史像は、「天皇制」「国体」「国家神道」「異教社会」等々なる用語を羅列するのみで、私が主語で「天皇制」等を内在的に問い質すこともなく、「天皇制国家」日本に挑むキリスト者の苦闘を「信仰の証」として描こうとする空虚な物語といえましょう。その叙述には、時の流行に合わせた「政治神学」―「解放」「差別」「フェミニズム」「ジェンダー」「越境」等の用語が何らの歴史的検証がないまま主語となり、国家を、時代を論難する作法が横行しています。このような歴史の作法は、「天皇制」下の抑圧と抵抗なる神話的言説に酔い痴れたある種の自己陶酔の産物、「自己愛史観」、「美しい国」日本を言挙げする「皇国史観」的感性と同根の歴史認識です。
  かかる歴史認識こそは、「歴史との取引」に励み、「進歩」への信仰に身をゆだね、キリスト教を鑑とした西欧近代との落差に惑い、日本社会の「後進性」「前近代性」を睥睨する心理的歪が生み育てたものにほかなりません。ここに問われるのは、自明としてきた「信仰の大義」や「摂理」なる言説を掲げる「大きな物語」ではなく、大地に生きた人間の営みが醸し出す世界を「小さな物語」として個別の場から想い描く歴史への眼です。この眼こそは、大地の場から日本教会の在り方を検証せしめ、私が主語で問い語る歴史像を可能としましょう。
(筑波大学名誉教授)
  「シンポジウム」の原意に寄せて : 荒井 献
No.1 2015-10-26
  私が比較的真面目に学術大会に出席する理由の一つに、シンポジウムの後で開かれる懇親会で「飲める」ことが挙げられる。大体、私が所属するほかの二つの学会(新約学会と基督教学会)の大会には、プログラムの中に「シンポジウム」はあっても「懇親会」なるものがない。これの背景には、日本の(特にプロテスタント)キリスト教の禁欲主義がある、と私は思っている。この忌むべき禁欲主義から解放されているのが、わがキリスト教史学会であろう。そもそも「シンポジウム」の原意は、「共に飲むこと」である。この意味で「シンポジウム」は、共に飲める「懇親会」と一体なのだ。
  私は恵泉女学園大学に10年間学長として勤めたが、この間に挙げた最大の業績は学内に「飲める」場を作ったことだ、と自認している。この間に短大の創立50周年記念会が開かれて、当時の大山綱夫短大学長が隅谷三喜男理事長に記念会でビールを出すことの許可を求めたが、言下に断られた。次年に大学の創立20周年記念会があり、当然理事長も同席だが、私は密かにワインを用意させ、いきなり乾杯の音頭をとった。
その時理事長は …… 「ワインはよい」と言われた。
  以後、恵泉では学会の懇親会でも学内で「飲める」ようになった。実際、その後に恵泉で開催された学術大会では、懇親会が学生ラウンジで開かれ、学園長や理事長も臨席のもと、晴れてワインを酌み交わすことができたのである。
  プラトンの有名な対話編『饗宴』は、ギリシャ語表題『シュンポシオン』の邦訳である。プラトンによれば、ソクラテスは「愛」(エロース)について、ワインを酌み交わしながら弟子達と対話をし、自らの哲学を形成した。私たちも、この伝統に倣い、懇親会で終るシンポジウムで、キリスト教の過去と向き合い、現代の居場所を確かめ、将来を創り出すことを目指して、学会を形成したいものである。
(本学会名誉理事)

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